編集部より須田 英太郎

内閣府SIP市民ダイアログから見えてくる自動運転の論点

2017.03.02

2月21日、内閣府が主導する戦略的イノベーション創造プログラム(SIP)の第3回「市民ダイアログ」が行われた。20代前半の学生と、法律や関連業界の専門家が集まって行われたこのディスカッションは、自動運転の効用や課題について若い市民が自分ごととして考える下地を作った、価値のあるイベントだった。

しかし、三点気になったことがある。ダイアログで扱われた重要な論点を紹介しながら、懸念点を整理したい。

法的な責任と道義的な責任

一つは、今回のテーマである「責任」の問題についてだ。3回目の「市民ダイアログ」である今回は、「ドライバーの権利と責任」がテーマとなっており、法政大学法学部の今井猛嘉教授が基調講演を行い、学生や関連業界の専門家も「責任」をテーマに多くの意見を出していた。(行政やメーカーの責任、プログラムアップデートをユーザーが怠った場合の責任、販売店の説明不足やCMのキャッチフレーズが誤解を生む可能性についての責任など)

なかでも興味深かったのが、事故の刑事責任についての議論だ。人が車を運転して事故を起こした場合、現行法では、過失運転致死傷罪や危険運転致死傷罪といった形で刑事罰が問われる。これは、車を操作するドライバーに「他人の権利を侵害しない責任」(今井氏)があるためだ。

この議論では、ドライバーに「予見可能性」と「回避可能性」があり、「適切な対処が可能なのにしなかった」ということが争点になる。これは、自動運転化が進んでも同様に重要な議論だ。(レベル3における責任の所在については、TMI総合法律事務所・木宮弁護士の論考「自動運転車(レベル3)の事故と運転者の法的責任」が詳しい)

では、ドライバーに「予見可能性」も「回避可能性」もなかった場合、事故の責任は誰が負うのだろうか。ディスカッションの中では、自動車メーカーやプログラム開発者という意見が出ていたが、開発者に刑事罰を課すのはイノベーションを阻害しかねず、問題がある。参加していた法学系の学生が述べていたように、刑事被告人は自己の不利益になる証言はしなくて良い(黙秘権がある)ため、刑事責任を課すと事故の原因究明は難しくなるだろう。航空機事故や医療事故といった専門的な事故は、刑事責任を問わないほうが原因究明や技術の向上につながるということが、昔から議論されている。(航空機業界のリスク管理については、元管制官・村山 哲也氏の連載「自動化をリードする空の視点」を参照のこと)

ヒューマンエラーのない自動運転車であっても、事故のリスクをゼロにすることは不可能だ。また、責任の所在を明らかにし、事故状況やプログラムを検証することには、今以上に専門的な知識と時間がかかる。原則として開発者に刑事責任を課さないのであれば、被害者の補償は国策として進めるしかない(現状の自賠責保険が強制加入なのも、被害者を迅速に救済するためだ)。また、ドライバーが減ることを考慮すれば、現在のような自賠責保険制度は機能しない。被害者を救済するための財源は、税金を充てることになるだろう。

ここから言えるのは、国策として進める自動運転社会の実現が、自動車業界だけの利益になってはならないということだ。市民全体が自動運転の利益をどう享受できて、私たち市民にどのような「責任」が発生するのか、それを議論しなくてはならない。

今回のディスカッションでは、法律の専門家や法学系の学生が扱う「責任」という言葉で議論が進んでいた。しかし、市民ダイアログの目的が一般市民の感覚をすくい上げ、ともに自動運転の未来を創造することにあるのであれば、法学的な見地を超えた「責任」について論じる必要があるだろう。原子力発電所の事故に関して、その電力を享受していた東京に住む一般の人たちにも大きな「責任」があったように、自動運転に関しても、それを利用する一般人としての私たちの責任を考えなくてはならない。

自動運転は「良いもの」と考える前に

気になったことの二つ目は、今回のダイアログが「自動運転は良いもの、普及すべきもの」という前提で進められていた点だ。

参加者に自動運転車を普及させたいと考えるメンバーが多く、ユーザー目線で話したのは1〜2名の女子学生のみだったように感じた。そのため、自動運転車(レベル3〜4)の事故の責任をユーザーに負わせる論調が支配的になり、その学生は不安げな表情で「事故が怖いので自動運転車に乗りたくない」「レベル3の乗用車は一般市民にとってあまりメリットがない」と発言していた(これこそ市民の本音かもしれない)。

この問題は今回のダイアログだけのものではない。多くの業界関係者やメディアが陥っている問題点だ。

自動運転という技術は、事故死者を減らす、新しい産業を生む、移動しながら他の仕事がしやすくなるといった点では価値がある。しかし、これが意味するのは、自動運転が限定的な目的に対して合理的であるということだけだ。自動運転が社会にとって「良いもの」である保証はなく、「良いもの」かどうかは事後的に判断するしかないのだ。

私たちが議論すべきなのは、「自動運転は良いものか」でも「自動運転は良いものなので、どうやって普及させるべきか」でもない。むしろ、「自動運転はどのような良さを生み出せるのか」、「社会にとっての良さとは何で、その基準は誰がどのように決めているのか」だ。合目的性(事故を減らすために「良い」かどうか)と、社会において尊重される価値(困っている人を助けるのは「良い(善い)」ことか)とを、混同してはならない。

事故死者を減らすためには自動運転は合理的であり、認知能力を鍛える、操作する喜びを楽しむといった目的には非合理的だ。どのような価値が社会に求められていて、数十年後の社会をどういう世界にしたいのかということを、私たちは議論しなくてはならない。(手間がかかることで得られる主観的な益=「不便益」についての議論は、名古屋大学の平岡敏洋氏の「不便益研究からみた理想の運転支援システム」を参照して欲しい)

また、自動運転のデメリットやリスクについても精査が足りていない。ハッキングのリスクは決してゼロにはならず、同時多発事故・同時多発テロが起きる可能性も大きい。プライバシーと監視社会についての議論も必要だ。1950-60年代には、原子力が「夢のエネルギー」として多くのメディアで礼賛されてきたことを鑑みれば、想定し得ないデメリットについて過剰と思えるほど考え抜く必要があるのは明らかだろう。

すべての市民が利害関係者

最後に今回のダイアログの感想を述べたい。「自動運転は普及すべき」という方針でモデレーターが参加者を誘導してしまい、議論に深さが感じられなかったのは前述したとおりだが、もう一つ残念だったのは自動運転車のイメージが「現在の乗用車やバス、トラックが自動運転化されたもの」という認識を超えなかった点だ。

自動運転社会が、格安の無人タクシーをいつでも呼び出せるような社会であれば、自動車の形は今の4−5人乗りが最適だとは限らない。一人乗りのパーソナルモビリティの方が、歩行者にも、ユーザーにも、環境にも優しいということはないだろうか。(パーソナルモビリティについては、産業技術総合研究所・松本治氏の「研究都市つくばのパーソナルモビリティ戦略」を参照して欲しい)

今回のディスカッションで、このような新しいモビリティのビジョンが提示されなかったのは、限られた時間のせいなのか、そもそもSIPが現在の自動車をベースに自動運転化を進めたいからなのかは分からない。「第5世代コンピュータ」プロジェクト(1982年から1992年まで、通商産業省が主導して進めたプロジェクト。570億円を費やしたが大きな成果は得られなかった)の例もあるが、行政主導でイノベーションを起こすのは難しい。IT系ベンチャーが次々とモビリティ業界に参入している欧米を見れば、日本の自動運転に関する動きが遅いのは明らかだ。(アメリカやイギリスにおける自動運転の議論についてはこちらの連載を参照。長野 美穂「アメリカの本音」、谷本 真由美「イギリスの本音」

社会がどのような価値を必要としていて、自動運転がどうやってそれを提供できるのかを考えるためには、より多くの人に「自分ごと」として自動運転を議論してもらう必要がある。私たち市民ひとりひとりが、将来の自動運転社会に責任があることを認識し、どのような社会にしたいのかを議論する。そうすることで初めて、自動車業界に限らない様々なアクターによるイノベーションが生まれるだろう。今回の「市民ダイアログ」のような機会が、より多くの参加者を含み、様々な段階・テーマの議論ができる場所になることを期待したい。

内閣府SIP市民ダイアログから見えてくる自動運転の論点