技術革新がもたらす障害者の再定義佐々木 一成

①自動車の自動運転化というユニバーサルデザイン的発想

2017.01.04

北海道や沖縄。極私的な事情によって、心から楽しめない観光スポット。

別に嫌な思い出があるとか、現地の方から厳しい仕打ちを受けたとか、そんな理由ではない。レンタカーを借りて、好きな場所に行けないという単純な理由だけだ。沖縄の綺麗な浜辺も、北海道の一本道も、1人では行けない。

免許持っていないだけでしょ?そんなツッコミもあるかもしれないが、残念ながら私は免許を持っていて、車も持っている。趣味はドライブ。ただ、多くの人と違うのは、アクセルとブレーキを改造しなくてはいけないということ。両足が不自由な私は「左アクセル転移」という改造をしなくては、車の運転ができないのである。

私にとって「観光地でレンタカーを借りて、自分で運転して楽しむ」というのは実現したい夢のひとつ。左アクセル転移なんて希有な車はレンタカー会社には置いていないし、ドライバーとなってくれる友人を連れて行けばいい、タクシーを使えばいい、介助してくれる福祉車両を借りればいいというアドバイスなんて、こちらの願望無視もいいところである。

自分の車で行けばいいじゃん、たしかにそれはごもっともなのだが、この後に続けたくなる言葉は、賢明な方ならば推し量れると思う。

左アクセル転移は、右足を切断している方に多い。改造せずに、器用に左足でアクセルを踏む方も中にはいる。麻痺や両足切断などによって車いすを使っている方は「手動アクセル・ブレーキ」を使う。踏むという行為は足を使うもの。足が不自由な障害者にとって、車の運転は、通常のそれとは違うものである。

両腕を欠損している方はハンドルが握れない。学生の頃に見たスウェーデンのシンガー、レーナ・マリアさん(両腕欠損, 左脚は右足の半分の長さ)のドキュメンタリーでは、足で器用にハンドルを回していた場面を記憶している。目が不自由ならば?耳が不自由ならば?視覚や聴覚に障害を持つ場合は、そもそも運転できるのであろうか。

障害者や高齢者にとって生活しやすいように障壁を取り除きましょうというのがバリアフリー。改造すれば運転できるというのは、たしかにバリアフリーの一環であろう。ただ、最近用いられるユニバーサルデザイン(障害者などに限らず、多くの方にとって使いやすいようにしようという考え方)の発想でいえば、自動車の自動運転化が最適解なのかもしれない。

カーナビで目的地を入れれば、自動で向かってくれる。危険物があれば察知し、停止する。信号もセンサーで反応する。スピードも制限速度に準じる。こんな状態であれば、ブレーキを踏めなくても、ハンドルを回せなくても、目が見えなくても、目的地に着く。障害者の中にある、運転できる/できないという格差も是正することができる。

アクセルとブレーキを踏み違えたという事故がニュースでは騒がれている。その事故の加害者の多くが高齢者であることから、高齢者の免許更新や免許返還について騒がれているが、この問題も解決できるだろう。社会的弱者、移動弱者にとって、自動運転というユニバーサルデザインは大きなソリューションだ。

ただ、自動運転できる自動車が増え、観光地のレンタカー会社もそれを導入したとき、「観光地でレンタカーを借りて、自分で運転して楽しむ」という私の夢は実現したと言えるのだろうか。障害者は障害者で、なかなかワガママなものである。

①自動車の自動運転化というユニバーサルデザイン的発想