クルマ移動生活の実態松本 周己

②クルマ移動生活者が考えるコミュニティとは

2017.02.06

「冬は暖かい九州・沖縄、夏は涼しい北海道で過ごす」という生活は、長年の憧れだった。その夢を叶えてくれたのがキャンピングカーとインターネットだと言っても過言ではない。

腰が重く出不精のくせに旅好きという矛盾した性格のわたしにとって、家ごと移動できるキャンピングカー暮らしは目から鱗の「移動方法」だ。面倒な荷造りをしなくてもいい、飛行機や新幹線やレンタカーの手配も、宿泊先を予約する必要もなく、極端に言えば旅の予定を決めなくてもいい。単独なので気兼ねなく、煩わしいことは「しなくてもいい」という安心感は大きい。

しかしそこで、よく投げかけられる言葉が「寂しくないの?」だ。

クルマ移動生活を始めたのは2005年、それまでは地元(熊本)を離れ東京に住んでいた。いきなり「キャンピングカーに住む」と言ってアパートを引き払い放浪の旅に出たのだから友人たちは驚いただろう。当時は考えもしなかったが、もしかしたら「薄情だな」と感じた人もいたかも知れない。

上京して15年以上も経っており、当然のこと交友関係は関東に集中していたので、その後も東京には「帰る」という感覚でいたが、年数が経つに連れ薄れてゆき、交流が続いている友人もずいぶん減った。

バイトや趣味などが縁でつながった友人にとっては、こちらの生活および行動範囲がまったく変わってしまったのだから、致し方ない結果であろう。当然、向こうの事情も年月により変化する。

これは加齢によるものもあろうが、クルマ移動生活が長くなるに連れ、だんだんと趣味・嗜好も変わっていった。テレビを見る時間が減り、雑誌や音楽CDを購入する頻度も、ブランド品への憧憬も減った。

ひとりクルマで旅生活をしていることに対して寂しいとは思わないが、そのことには寂しさというか郷愁のようなものを覚える。

ともあれ、そんな行く末のことはいざ知らず意気揚々と出発したわたしは、何ものにも縛られず解き放たれた毎日が送れると思っていた。

前回【クルマ移動生活者のコミュニケーション】でも述べたように人付き合いは苦手な方で、初対面で気軽に会話を楽しめるタイプではない。自由気ままな一人旅であれば、それを気にする必要はないと考えていたのだ。

そんなわたしが、クルマ移動生活をすることによってよもや見ず知らずの他人との「ご近所付き合い」が発生するなどとは、予想だにしなかった。

日々、駐車場やキャンプ場など隣同士に停泊する機会があり、1泊限りであろうともそれは「お隣さん」ということになる。たまたま出くわせば挨拶もするし、会話へと発展する場合もある。むしろ東京の一人暮らしではあり得ないことだ。

たいていは無難に過ごすが、相手は不特定多数。駐車場であるにも関わらず車外に洗濯物を干したり、夜遅くまで発電機を回し飲んで騒いだりするなど、考え方、生活パターンの相違は当たり前のように存在し、悩まされる。これらが発端で「ご近所トラブル」に発展しないとも限らないのだ。

ところ変われば品変わる、いろいろな地方の人間が入り交じり、さまざまな価値観がぶつかり合うのだから軋れきが生じない訳がなく、マナー問題が如実に浮き彫りになる。

ある日の事。3〜4台ほど集まった旅行中と思われるキャンピングカーの一団に、「一緒にご飯を食べましょうよ!」と明るく手招きされた。そこは、道の駅の駐車場だ。ご丁寧に街路樹の下にテーブルとイスがセッティングされていた。「旅の恥はかきすて」とは、思わないでほしい。元からマナー違反だなどとは知らないのだ。

屈託ない無邪気な笑顔のご夫婦に「ここは道の駅であってキャンプ場ではないですよ」と説教を垂れるのは野暮というものだろうか、それとも慢心であろうか。いずれにせよ、このような事で目くじらを立てるのは得策ではない。

住居と違ってクルマ移動生活のいいところは、すぐに移動できることである。やんわり断って、停泊するつもりだったその場所を泣く泣く離れるのが常だ。これで無用なトラブルや不快感を回避できる。

日本人は「和をもって尊しとなす」国民性である。いったん籍を置いたコミュニティから脱却するには精神力が要る。

共通の趣味(クルマやバイク、鉄道、カメラ、登山など)が縁で集まったコミュニティであっても、人数が多くなれば大なり小なり意見の相違が出てくる。それを見過ごせず糾弾するようなタイプの人がいると論争に発展し、最終的にそのコミュニティは分裂もしくは解消となる。いい大人が、と思うかも知れないが、こういうパターンはよくあることだ。

もし重荷と感じるタイプであるならば、少々寂しくともコミュニティにははじめから参入しない方が無難だろう。

クルマ移動生活をはじめて今年で12年目となるが、大小いくつもの上記のような「コミュニティ」を見てきた。その経験を経て今、自分自身の心境の変化を感じている。それは、コミュニティを「現象」としてではなく「人と人のつながり」であると認識したことである。

定住していた頃を振り返ると、地域や職場などのコミュニティは本当に深く結びついた人間同士による「心のかよった共同体」であっただろうか? ただ不可抗力の元に集まった群衆であるといえなくもない。

例えば、上記のような即席コミュニティは、一定の条件の下に集まっただけの「現象」である。「現象」と「コミュニティ」の違いとは、単に出会ってからの時間の長短や行動範囲を共有するかどうかという問題ではない。趣味が違っても、年齢が離れていても、生活レベルがかけ離れていようとも、利害や損得にとらわれない人柄でつながった人間同士が形成するのが「コミュニティ」なのだ。

常に身近になくとも、自らが築き上げたコミュニティ(仮想コミュニティとでも呼ぶべきか)があり、こんなわがままな自分をかまってくれる仲間がいることに、感謝している。

②クルマ移動生活者が考えるコミュニティとは