SFの中の自動運転車

沖田 征吾

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沖田 征吾
沖田 征吾 (おきた・せいご)
1981年生まれ。高校卒業後、音楽活動、小説執筆、NGO勤務を経て、29歳で東京大学に入学。文化人類学と表象文化論を学ぶ。在学中に「東大芸術ゼミ」を主催。東大新聞オンラインの記事執筆のほか、文芸誌に「リミッツオブコントロール」論(シクスティナイナーズ)、「ネット利用の自主的制限」(Project:AMNIS)等を寄稿。麻枝龍とWebラジオ「SF創作講座 非受講生のダールグレンラジオ」を放送中。

優れたSF作品は、時に未来を鋭く予測し、そのヴィジョンを示すことによって、やがて来る社会へと私たちを準備させる。江戸時代の人々にスペース・シャトルが何かを説明するところを想像してみて欲しい──彼らはきっと、それが何か理解できないだろう。けれど、アポロ計画が始まる頃の人類には、既にSFの中で多くの宇宙を旅した経験があった。その役割は今でも変わっていない。現代の私たちが、次々実現される技術──例えば人工知能、VR、ナノマシンについて、スムーズに考え、議論出来る理由の一つは、様々なSF作品のおかげだろう。

しかし、自動運転車に関して言うと、どうもSFは分が悪いようだ。自動運転が当たり前になった近未来世界を描いた、神林長平のSF小説『魂の駆動体』での一文がその理由を示している。

「それ(自動運転車)は動く道路といったほうがいい。動く歩道やエスカレーターや、エレベーターなどと同じく、利用したければだれでも乗れる移動のための自走機にすぎない」

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エレベーターの運転について詳しく書いた小説を想像できるだろうか? 洗練された自動運転車は、共用の交通インフラへと変わり、個性を失くして物語の背景へと引いてしまう。せいぜい未来っぽさを増すためのガジェットとして、小説のわずか2、3行、あるいは映画のワンシーンに登場するだけだ。むしろSFの方が現実を追いかけているようにも見えて、記事を書くこちらはピンチに陥ってしまう。

けれど、諦めるのは早い。探してみれば、ユニークな作品がいくつか見つかるし、そのことよりも、時代とともに、SFの中での自動運転車の描かれ方、イメージが面白く変化していくのを見ることが出来る。一種の「生命体」として意志を持つ車、ハッキングによる暴走、中央管制の下で走行する車、自動化により人々の主体性を奪う車……SF作品に登場する自動運転車は、多様な変化を遂げてきた。SF作品のクリエイターたちと、現実の技術とのデッドヒートを、様々な作品を紹介しながら眺めてみよう。

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1981年生まれ。高校卒業後、音楽活動、小説執筆、NGO勤務を経て、29歳で東京大学に入学。文化人類学と表象文化論を学ぶ。在学中に「東大芸術ゼミ」を主催。東大新聞オンラインの記事執筆のほか、文芸誌に「リミッツオブコントロール」論(シクスティナイナーズ)、「ネット利用の自主的制限」(Project:AMNIS)等を寄稿。麻枝龍とWebラジオ「SF創作講座 非受講生のダールグレンラジオ」を放送中。

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