道路の民俗学畑中 章宏

②鹿が通る道

2017.04.05

日本における「けものみち」の代表格は鹿が通った後にできる「しかみち」である。日本の鹿はどこからどのように、なぜ移動してきたのだろうか。鹿が来た道を考える。

逃げる鹿と追う人間によってできた「しかみち」

日本人が追ってきたナウマンゾウが約2万年前に絶滅し、野尻湖や日本橋浜町から消えたとき、オオツノジカやモリウシといった大型の獣もともに滅んだ。

ゾウが跋扈していた時代の武器は、素朴で原始的なものだったが、現在とほぼ同じ動物相の沖積世が始まると、鋭く先が尖った石器、「尖頭器」が生みだされ、獣との間合いを取れる槍が発明された。人びとはこの革命的な武器を使って、イノシシや鹿、クマなどを狩るようになったのである。

かれらの叡智の第一歩は、けものの歩く道、それぞれの「けものみち」の実体を知ることからはじまった。
そして、人間の作った道は、それを追って、けものみちとけものみちをつなぐ、人間しか通らない近道をつくることからはじまったようである。
(藤森栄一「黒耀石槍(オブシィデアン・ポイント)の狩人」)

考古学者の藤森栄一は、彼のフィールドである信州から秩父につながる、現代のシカが通る道を探りながら、その道が石槍を作った人々の遺跡と奇妙に重なることに気づいた。そうしていまも残る「しかみち」が、黒耀石槍の狩人たちにとっても「しかみち」だったのだろうかと考えをめぐらせるのであった。

藤森によると、細石刃を組み合わせた「銛」のような槍の時代にも、こうした人びとがシカを追う道は継承されたとみる。長野県蓼科山の「御小屋之久保遺跡」、同じく八ヶ岳の「矢出川遺跡」などは、狩人たちの代表的な村であったらしい。

そして黒耀石槍の狩人たちの道は、「しかみち」そのものであり、九州から北海道まで、いくつかの、かなり大がかりな野獣を迪う回帰路があったという。

そして、それぞれの回路に、ちがったいろいろな特徴のある槍さきを落としていった。かりの泊りの跡も、そして命も。
(藤森同前)

奈良公園の鹿の出自

鹿と言えば、奈良公園に群れ集う鹿にせがまれ、「鹿せんべい」を買い与えたことのある人は、決して少なくないだろう。修学旅行のような団体で旅する機会であれば、「奈良の大仏」を安置する東大寺大仏殿に行く途中、運慶・快慶作の金剛力士像が両脇に立つ仁王門の手前あたりで経験しているかもしれない。

しかし、この大勢の鹿たちは、なぜこのあたりに暮らしているのだろうか?

まず奈良公園の鹿は、東大寺に属するものではない。また阿修羅像で有名な興福寺にも属していない。鹿たちは興福寺の鎮守社、春日大社の神の眷属(けんぞく)で、しかももともとここにいたのではなく、現在の茨城県からやってきたのだ。

春日大社の縁起によると、768年(神護景雲2年)、本社第一殿の祭神「武甕槌神(たけみがづちのかみ)」が、常陸の鹿島(かしま)から「白鹿」に乗って飛来し、御蓋山(みかさやま)の頂上に降り立ったのが神社の始まりであるという。そのようすは中世以降の「鹿島立神影図(かしまだちしんえいず)」に描かれた。

武甕槌神は、茨城県鹿嶋市に鎮座する「鹿島神宮」の祭神で、天照大神の命により国土を平定し、神武天皇東征の折に神剣「布都御魂剣(韴霊剣・ふつのみたまのつるぎ)」を天皇に献じて東征を助けた。天皇は即位した年、使いを鹿島に遣わして武甕槌神を祀ったと伝える。ちなみにこの神社にも「鹿苑」がある。

武甕槌神が白鹿に乗り、常陸から大和に飛来したというこの伝承は、蝦夷攻略の前線基地である鹿島が、中央と古くからつながる土地だと付会するためのものだったろう。しかし2つの地域のあいだに、文化的、宗教的、経済的な強い結びつきがあったのは間違いない。ところがどちらからどちらへ移動するにしても、「飛来」せずに行くには、駅制や駅路が整備されてなかった古代はもちろん、今日でも長い時間を要する。

武甕槌神は鹿島の土着神(国つ神)として、海上交通の神として信仰されていたとみられることから、移動はおそらく「白鹿」の伝承とは裏腹に、海の道だったのではなかろうか。

鹿角の杖を持つ人

鹿で思い出す中世の逸話がある。

京都市東山区「六波羅密寺(ろくはらみつじ)」にある「空也上人立像」は、「南無阿弥陀仏」を唱える上人の口から、6体の阿弥陀仏が現われている特徴的な像容から、実際に見た人にも、教科書で知った人にも印象的なはずだ。この空也像はよく見ると、胸に金鼓(かね)を下げ、右手に橦木(しゅもく)、左手に鹿の角を挿した杖、腰には鹿の革の袋をさげている。

伝承によると空也は、貴船の山に篭って修行しているとき、夜毎に訪れては啼く鹿の声を愛した。ところが、鹿が姿を見せなくなったので尋ね歩いていると、手に鹿の角と皮を持った狩人に出会った。空也はそれを乞い求め、皮は袋として身にまとい、角は杖に取り付けつけて愛用した。狩人には代わりに瓢箪を差し出し、叩いて念仏することを勧めたという。

しかし、空也が歩いたのは京都市中とその周囲にある山々ぐらいで、「踊り念仏」を受け継いで時宗を開いた一遍上人のような「遊行」や「遍歴」というものではなかった。

鹿沼の鹿

栃木県の鹿沼市に「古峯神社」がある。

中禅寺湖畔に聳える聖地、二荒山(ふたらさん)に向かう「日光修験」の山伏が拠点にした「深山巴(じんぜんともえ)の宿(しゅく)」がもととなった社だ。

いまから7、8年前、古峯神社から古道を伝い、霊気溢れる深山巴の宿を訪ねたことがある。そのとき鬱蒼としたずっと森の中を歩いていたのに、突如として舗装されたバイパスに出た。そこには一頭の鹿がいて、私の方を驚いたように振り向いた。そうしてその鹿は向き直ると、バイパスの左側を日光の方角に向けて、軽やかな足取りで走り去っていった。

いまにして思えばあの鹿は、だれかを乗せて、目的地に急いでいたのかもしれない。

参考文献
藤森栄一(1966年)『古道』学生社

②鹿が通る道