新制度設計と立法TMI総合法律事務所

①ハンドルやブレーキペダルのない自動運転車を考える

2016.12.08

1 NHTSAの指摘

米国運輸省の国家道路交通安全局(National Highway Traffic Safety Administration; NHTSA)が、2016年の2月4日、Googleに対し、自動運転システムすなわち人工知能(AI)がドライバーとみなすことができると公式に回答したとして、話題になった。その書簡のやり取りが一部公開されている(*1)。このような、規制当局と製造業者の間でのディスカッションが公開でなされていること自体、高く評価すべきであるし、いかに米国政府がオープンなプロセスで米国の自動運転車産業を牽引しようとしているかを示している。

GoogleからNHTSAに対する質問の趣旨は、端的に言えば、現在のFMVSS(Federal Motor Vehicle Safety Standards; 米国連邦自動車安全規則)の下でも、無人で、しかもハンドルもブレーキペダルもない完全自動運転車を公道で走行させられるのか?というものだった。これに対し、NHTSAは、自動運転車をコントロールするAIがFMVSS上の「運転者」に該当することは認めたものの、結論としてNOと回答した。

あまり注目されていないが、NHTSAは、Googleに対するこの回答の脚注の中で、興味深いことを述べている。

すなわち、「Googleが不要であると主張するハンドル、ブレーキペダルが本当に不要かどうか、これらを不要とした場合に本当に安全の面でリスクがないか、再検討してはどうか」と示唆しているのである。

NHTSAは、Googleに対し、完全自動運転車の開発と普及に向け、全般的に非常にポジティブな姿勢を見せているが、ハンドルやブレーキペダルの要否の問題は、米国政府とGoogleの間で考え方が大きく乖離した数少ない論点の1つだといえよう。

2 ハンドルやブレーキペダルはなくなるか?

自動運転車の社会的な効用としては、交通事故の減少、環境・資源の保護、渋滞の減少、高齢者や障害者等の移動支援、駐車場の減少、移動時間の有効活用等が挙げられる。その中でも最も重要なのが、交通事故の減少だ。自動運転車が人間の運転手に取って代わると、死亡事故の件数は90%も減少するという調査結果もある(*2)。そうであれば、完全自動運転車の普及後は、全ての運転をAIに委ねればよく、ハンドルもブレーキペダルも不要ではないか。ハンドルやブレーキペダルを不要とするGoogleとは反対の立場に立つ、「ハンドル必要論者」は、どのような論拠を取るのだろうか。

警察庁が平成28年3月に公表した、自動走行の制度的課題等に関する調査研究報告書(*3)にある「車の自動走行システム(いわゆる自動運転)に関するアンケート」を眺めると、いくつかの論拠を想定することができる。

アクセル・ハンドル・ブレーキ操作の全てが自動的に行われる自動走行システムの利用意向

アクセル・ハンドル・ブレーキ操作の全てが自動的に行われる自動走行システムの利用意向

自動走行システムに対する懸念

自動走行システムに対する懸念

1つ目は、技術水準と安全の観点である。現在の技術水準では、人間の運転車がオーバーライド(介入)して自動車をコントロールする余地を残さなければ回避できない事故が相当程度ある、という前提に立つとすれば、安全性確保の観点からは、現時点ではハンドルもブレーキペダルも無くすことはできない、という結論になるのは自然なことだ。現時点で、上記のアンケート回答にある「自動走行システムに対する懸念」を技術的に十分に払拭できるとはいえず、「運転操作をシステムに任せるのは不安なので、あまり利用したくない」というわけだ。ただし、この考え方からは、技術の進歩に伴い、中長期的には、ハンドルやブレーキペダルのない完全自動運転車を許容することになるだろう。

2つ目は、Fun to Drive、つまり、「ドライバーとして運転操作を行うことを楽しみたいので、あまり利用したくない」という考え方である。この立場からは、ハンドルとブレーキペダルは必要不可欠だということになるが、社会全体の厚生を考えたときには、Fun to Driveに上位の価値を置くことは難しいかもしれない。

このほか、3つ目として、技術の水準にかかわらず、絶対に人間がコントロールする余地を残さなければならないという考え方もある。これは、一言で言うと、人間をAI・機械に優位するものととらえ、あるいは、人間の自律性・自己決定に高い価値を置く考え方に基づくものである。全ての権限をAI・機械に移譲しないという哲学だといってもよい。この考え方からは、技術の進歩により安全性が大きく向上し、ハンドルやブレーキペダルが姿を消した未来の自動運転車であっても、事故やAIの過ちを100%回避することはおそらく不可能だから、緊急停止ボタンのような人間によるオーバーライド(介入)のための最終手段は必ず設けなければならないという結論になると思われる。例えば、ロボットと倫理に関する議論の中で、「Kill Switch」すなわち、いつでもロボットの電源を切れるような仕様を義務付けるべきではないかとの議論がある(*4)。予想外の動き、または何らかのトラブルによって、ロボットが人間に対して害悪を行う万一の場合を想定してのことだが、これは、人間がAI・機械をどこまで信頼するか、あるいは、どの程度脅威とみるかという、人間とテクノロジーの基本的な関係性を論じるものだといってよい。

このようにみてくると、NHTSAの真意はともかく、多くの論者が予想するとおり、中長期的には、やはり、将来の自動運転車からはハンドルやブレーキペダルがなくなる、そして何らかの緊急停止ボタンが備え付けられる可能性は大いにあると思われる。自動車が、ハンドルもブレーキペダルもない1つの「部屋」のような空間になれば、私たちの日々の暮らしも、ビジネスのかたちも大きく変わるだろう。

3 過失責任の分水嶺としてのハンドル・ブレーキペダル

しかし、そうであるとしても、私たちは、次の問題に直面する。「ハンドルやブレーキペダルがないが緊急停止ボタンが備え付けられた自動運転車」の搭乗者は、何かあったときに緊急停止ボタンを押せるよう、走行中、運転席に座って自動運転車の周囲に気を配っている必要があるだろうか。

この問題は、ハンドルやブレーキペダル、そして何らかの緊急停止ボタンといった人間のコントロール可能性の有無が、法的に重要な意味を持つことを示唆している。これは、万が一の事故の発生による損害賠償責任を誰が負うかという点に関わる。

人間が運転する自動車、あるいは、人間がオーバーライド(介入)してコントロールしている自動運転車が交通事故を起こした場合には、その運転者である人間の過失が問題となる(*5)。過失とは、民法の不法行為に基づいて、被害者が加害者に対して損害賠償請求をする際に主張立証しなければならない法律要件であり、その内実は、一言で言えば、予見可能性を前提とした、結果回避義務違反である。簡単に言うと、一定の損害の発生を予見し得たのに、それを回避するためにとるべき作為または不作為を行わなかった場合に、過失が認められる。

これに対し、仮にハンドルもブレーキペダルも、そして緊急停止ボタンも一切ない完全自動運転車を想定しよう。このような完全自動運転車が事故を起こした場合には、明白な整備不良等が認められない限り、搭乗者の過失責任を問える場面は、きわめて限定的となる。そもそも走行する自動運転車をコントロールできない者に、法的責任を負わせることはできないからだ。法は不可能を要求しない。そのコロラリーとして、自動車製造業者、または完全自動運転を司るAIのベンダーに民法上の不法行為または製造物責任等の根拠に基づく損害賠償責任が生じる可能性が高まる(もちろん、被害者は、自動車製造業者やベンダーの過失、または製品の欠陥や因果関係等を立証しなければならないし、それが容易ではないことも多いだろうが、理論的に搭乗者の責任を問う可能性が低下する以上、損害賠償責任の所在は、自動車製造業者やベンダーに大きくシフトせざるを得ないと考えられる)。つまり、人間にコントロールする余地を残さない、あるいはきわめて限定的にしか残さない完全自動運転車は、自動車製造業者やAIベンダーといったメーカーの法的責任を増加させ、その結果、自動運転車に関わる技術開発や社会実装が非効率に遅れたり、自動運転車の価格の高騰となって跳ね返ったりする問題をはらんでいる。

完全自動運転車に、上に述べたような高い社会的効用があることを前提とすれば、開発のインセンティブを大きく殺ぐような政策やルールは妥当とはいえない。このようなことから、例えば米国では、メーカーの完全免責または責任限定、無過失責任保険制度の拡充といった立法論や、法解釈によってメーカー側の法的責任を限定する考え方が活発に議論されている(*6)。また、事業者が提供する完全自動運転車を用いたサービスの場合には、サービス提供事業者に責任を負わせるというのも現実的な方向性だろう。

このように、ハンドルやブレーキペダル等の人間による操作ツールは、交通事故に関する過失責任を分配するいわば分水嶺としての意味を持っているということができる。

本項の冒頭の問題に戻ろう。ハンドルやブレーキペダルがなく、緊急停止ボタンのみを有する完全自動運転車の場合、搭乗者は、何かあったときに緊急停止ボタンを押せるよう、走行中、運転席に座って自動運転車の周囲に気を配っている必要があるか。おそらく、現行法下では、例えば(抽象的な表現になるが)、家庭用完全自動運転車の搭乗者が、事故を容易に予見でき、緊急停止ボタンを押すことにより事故を避けることが容易にできる状態にあり、かつ、完全自動運転車の故障や誤作動等を認識していたにもかかわらず、漫然と何もしないまま、事故を起こしてしまった場合には、その搭乗者に過失が認められることは否定できない。

もちろん、問題は、完全自動運転車の搭乗者に過失を認め得るルールの設計がよいことなのか、あるいは、自動運転車を搭乗者が事故を回避できるよう予見できるようなつくりに「すべき」か否かについて、どう考えるかであり、今のところその点についての社会的合意はなさそうである。「それでは自動運転車の座席には外を向いて座れるようにしろということか」「視覚障害者は自動運転車に乗ってはいけないのか」「いっそ窓のない自動運転車を作ってはどうか」「周囲に気を配れということは、運転免許制度はやはり維持すべきということになるのか」等々…といった次々と湧き出る論点とともに、これから議論していなければならない。

以上のとおり、自動車からハンドルやブレーキペダルを無くしてしまってよいかという論点一つとってみても、多面的な問題が潜んでいるし、社会全体のルールという大きな制度設計の問題につながっている。「自動運転のある社会」に関する、オープンで国民的な議論が必要なゆえんである。

文・弁護士 波多江 崇(はたえ たかし)

*1 Letter from National Highway Traffic Safety Administration to Google (Feb. 4, 2016)等。

*2 http://www.mckinsey.com/industries/automotive-and-assembly/our-insights/ten-ways-autonomous-driving-could-redefine-the-automotive-world

*3 https://www.npa.go.jp/koutsuu/kikaku/jidosoko/kentoiinkai/report/honbun.pdf

*4 例えば、Larel D. Riek and Don Howard, A Code of Ethics for the Human-Robot Interaction Profession(2014)

*5 現行の自動車損害賠償保障法(自賠法)上、運行供用者(自動車の使用について支配権を有し、かつ、その使用により享受する利益が自己に帰属する者。典型的には所有者)は、人身事故に関しては、ほとんど免責されない非常に重い無過失責任を負わされ(自賠法3条)これを自賠責保険でカバーする仕組みとなっている。人間のコントロールする余地のない完全自動運転車の場合にも、運行供用者は同様の無過失責任を負担するかどうか、むしろ完全自動運転車の場合には運行供用者の重い責任は軽減すべきではないかといった点については、一つの大きな問題であるが、この点は本稿ではいったん措き、別稿で論じることとしたい。

*6 近内京太「自動運転自動車による交通事故の法的責任〜米国における議論を踏まえた日本法の枠組みとその評価〜〔上〕」国際商事法務Vol.44, No.10(2016)1453頁以下。

①ハンドルやブレーキペダルのない自動運転車を考える