自動運転による最適化には自然知能が有効か
原 正彦
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自動運転は、複数の不特定多数の“群”が、A地点からB地点に到達(あるいはその逆)しようと行動し、しかもその行動が(A地点、B地点に限らず)多地点で同時多発する問題とみなすことができる。
それは群(及びそれを構成する“個”)の安全性と経済性と快適性を同時に実現することができるか、といういわゆる全体最適化の問題に置き換えることができる。しかも仮にその全体最適化が実現すると、経済的な地盤沈下が起きる可能性も指摘されているくらいなので、仮にディープラーニングがそのソリューションの一部として機能することはあっても、それだけがソリューションとは限らない。
我々は自然現象の中にある種の解があると睨んだ上で、創発、揺律、自己組織化、相転移、不可知な現象に対する知覚(入力)と造形(出力)、価値の選択、といったキーワードを設定した。これらを駆使して自然の中に潜む“全体知”のようなものが活用できれば、不良設定に見える協調行動(自動運転)問題が解決できる可能性がある。これを「自然知能の美学」という。
自然知能とは一言でいえば、自然界に内在する、未だ外部からは読み取れない不可知な部分を含む、複雑なメディアの「環境制御」と「価値の選択」に基づいて発現する知能だ。非平衡解放系のような自然の状態遷移系とその観測から生まれる計算だと考えてもらってもいい。
人間にはない自然が持つ独自の知能(e.g.光合成など)をそのまま活用しようという古典的な考え方とは一線を画す。むしろ生物の不可知な行動に計算という視点を取り入れることで新たな知能が実現できるのではないか、という試みだ。もっと具体的に言えばチューリングマシンとは異なる“原理”による自然計算で、人の脳や身体に依存しない普遍的な知性が獲得できるのではないかと考えている。認識からスタートしている人工知能ではなく、人の認識の枠組みの外にある存在(実在)を探求したいのだ。
いずれにしても私たちには「考え方のイノベーション」が求められている。イノベーションとは一種の原理の変更である。原理が変更されるのだから、一般には受け入れ難くまた理解しがたいものでなければイノベーションを語る資格はない。
例えば学会発表で研究者仲間から賞賛されるような成果をプレゼンテーションしたとしよう。「賞賛」というのはその研究がすごいということがその場にいた誰もが“理解できた”ことを意味する。残念ながらこの時点でイノベーションの失格だ。今すぐに“素晴らしいと評価される”研究が必要なことは否定しないが、本当に求められているのは“そういうレベルの研究”ではないのだ。
多少の誤解を承知で言えば「何を言ってるのかよくわからない研究」に目を向けて欲しい。思考プロセスの軸を縦横無尽に組み替えるような研究でなければ本当の次世代を作ることはできない。大学や研究機関に求められているのは本来そういうパラダイムシフトを起こす人材なのだ。