道路の民俗学畑中 章宏

①象のきた道

2017.03.08

象を追って

長野県上水内郡信濃町にある野尻湖の湖底からは、1962年(昭和37年)から1965年(昭和40年)まで行われた発掘調査で、ニホンジカ、ヒグマ、ヤマドリなどとともにナウマンゾウやオオツノジカなど大型獣の骨が大量に発見された。肩の高さが2.5mから3mもあるナウマンゾウは、熱帯性の動物で体毛に覆われていないと考えられていた。だがこの発掘調査により、やや寒冷な気候のもとにいたことが明らかになったのである。

ナウマンゾウは約34万年に、南方から朝鮮半島を経由して日本にたどり着き、約2万年前に絶滅したとされる。いっぽうで現生人類は、約4万年前に日本に到達したようである。1949年(昭和24年)、群馬県新田郡笠懸村(現・みどり市)の関東ローム層の厚く堆積した火山灰の中から、黒曜石で作られた打製石器を発見された。

在野の考古学者相沢忠洋が発見した石器は、日本列島では火山活動が激しく、人類の生存が困難だと思われていた時代のものだった。この「岩宿(いわじゅく)遺跡」の発掘調査以降、同じような石器群が列島の各地で発掘され、約3万年前の日本に人類が生活していたことが確実となった。

こうした旧石器人は、獲物である大型動物を追って、南北から日本にやってきたと考えられている。当時の日本列島はアジア大陸と、津軽海峡や対馬海峡が「陸橋」となってつながり、日本海は巨大な湖だった。日本のほとんどはブナ、ナラなどの冷温帯落葉樹林と、亜寒帯性の針葉樹に覆われ、気候は寒冷だった。旧石器時代の石器製作技法が北方系と南方系に分かれることから、人々は陸伝いに北と南からやってきたのと考えられている。

野尻湖周辺の遺跡からはナウマンゾウ、オオツノジカの化石とともに、旧石器時代の石器や骨器が数多く見つかっていることから、ナウマンゾウは人類の狩猟の対象だったと考えられる。

「ゾウの群れは、いくども、いくども、気象の変化を追って、南へ、ときには北へ、この長い地峡を縦断して往来した。そのあとからは送り狼のように、最初の日本人が追っていたのである。」(藤森栄一『古道』1966年)

日本列島は約1万2千年前まで寒冷だったうえ、火山が噴火を繰り返していた。旧石器人は、火山災害を避けながら、食糧となる動物を追って移動したのである。

東京を歩いたナウマンゾウ

ナウマンゾウの標本は、明治時代初期に横須賀で初めて発見された。このゾウを詳しく研究し、報告したのは、東京帝国大学地質学教室の初代教授でドイツ人のハインリッヒ・エドムント・ナウマンだった。Palaeoloxodon naumanniという学名は、もちろん彼にちなんだものである。

ナウマンゾウの化石は、野尻湖や北海道湧別町忠類などのほか、東京都内だけでもなど20か所以上で発見されている。

1976年(昭和51年)、地下鉄都営新宿線の浜町駅付近を工事中に、地下約22mの約1万5000年前の上部東京層から、3体のナウマンゾウの化石が発見された。頭蓋や下顎骨を含むこの化石は「浜町標本」と名づけられた。

浜町標本は、発掘された中央区の文化遺産として管理されるべきものだったが、当時東京23区内には自然史の博物館がなかったことから、都内で唯一の登録博物館だった八王子市の高尾自然科学博物館に収蔵された。しかしこの博物館は2004年(平成16年)に閉館してしまい、現在は閉校になった小学校に保管されているという。中央区から返還の動きがあったが、2025年までは八王子市に所有権があるらしい。

地下鉄浜町駅を地上に出ると、すぐの目の前には明治座、隅田川べりには浜町公園がある。そこから人形町までのあいだには、下町情緒溢れる「甘酒横丁」が通っている。浜町公園にうずくまっていたナウマンゾウがむくりと起き上がり、浜町緑道のあたりで草を食み、甘酒横丁をのしのしと歩く姿を妄想するのは、とても楽しい。

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正倉院に伝来する象

“シルクロードの東の終着点”といわれる東大寺の正倉院には、工芸品ばかりでなく「正倉院薬物」と呼ばれる薬品群があり、そのなかに「五色龍歯(ごしきりゅうし)」という象の臼歯の化石が伝来している。

戦後まもなくに行われた大規模な調査結果によると、これらの薬物のなかには動物性のもの、植物性のもの、鉱物性のものがあり、その原産地はアジアの各地に及ぶ。五色竜歯はナウマンゾウの化石だと説明されることもあるが、調査の際の鑑定では、インドのシワリク山地から発見されることが多い、ナルバダゾウのものだとされる。

遣唐使が持ち帰った可能性もある五色龍歯は、鎮静薬として重宝され、天平時代の日本人にとっては貴重な舶来の新薬だった。

「しかし、当時の人びとは、その新薬の正体が象の歯の化石であるなどとは考えもしなかったであろうし、だいたいその頃の日本人は象という動物の存在そのものについてもほとんどなにも知っていなかったのである。」(亀井節夫『日本に象がいたころ』1967年)

化石になった象は、古代の日本に海の道を伝って、いつのまにかやって来ていたのだ。

参考文献
藤森栄一(1966年)『古道』学生社
亀井節夫(1967年)『日本に象がいたころ』中公新書

①象のきた道