生命はどうして移動するのだろうか。生命にとって移動とは、狭く捉えればリスクであり、広く捉えればリスク分散であると言える。

ウナギは一度に500万〜1000万個近くの卵を生むが、成体に至るまでの生活史を通じて長い距離を移動する間にほとんどが捕食等で死んでしまう。ウナギは日本などの河川で育ち、2000km近く離れたマリアナ海域の海山まで移動して産卵することが分かってきた。生まれた幼生や稚魚は成長しながら北上するが、移動する間に多くが捕食される。近海で産めば、子孫を残しやすいはずなのに、わざわざこれほど移動する理由は分かっていない。現在のウナギの生態において、これほどの距離を移動することは、明らかにリスクである。

多くの生物や原始のヒトは、自由意志ではなく、気候や食べ物の有無など、自然の制約にもとづく受動的な移住や移動を行ってきた。多くの生物は、化学物質センシングによって自分の近くに存在する対象の匂いを感知し、そこに移動するようなことはできる。しかし「はるか先のまだ見たことのない世界に行こう」ということにはならないのだ。渡り鳥やうなぎの移動も、環境に変化に対応した移動する個体が生き残り、それが環境や他種との関係のなかで有利に働いて、種として繁栄したのではないかと考えられる。彼らの移動は自由意志ではなく、たまたま獲得された種としての形質なのだ。

リスクとしての側面も大きい移動であるが、これは生物にとってリスク分散であるとも考えられる。なぜなら、移動することで広く分布して繁栄すれば、一箇所に固まっているよりも生き残りやすいからだ。一つの場所に固まっていると、局所的な環境変動や破局的出来事などの事態に対処できない。

人間には、wanderlust gene(wanderlust=旅好き、放浪癖)と呼ばれる遺伝子を持つ人がいることがわかりつつある。「DRD4-7R」と名付けられているこの遺伝子は、人の好奇心や落ち着きの無さに関わっているとされ、これを持つ人は探究心が強いことが示唆されている。

アフリカで生まれた人類が、もっとも遠くまで移動したのが、南米大陸の南端やポリネシア地域だが、その地域の人々は、この遺伝子を持っている割合が多い。「この先に何があるのか」を探求する気持ちは、ヒトを地球上の広範囲に分布させ、人類滅亡のリスクを減らすことにつながってきたかもしれない。人間がアフリカのみに留まっていたら、そこで気候変動があったり、隕石が落ちたりして全滅していたかもしれない。一箇所にとどまって安住することなく、移動した個体がいたから種が存続、繁栄できたかもしれないのだ。移動することそのものに短期的なメリットはないかもしれないが、大きな視点ではとても重要だった。

このような移動への欲求は、wanderlust geneを持つ人々にとって、遺伝子に組み込まれた本能的な欲求なのだ。「有人で行う深海や宇宙といったフロンティアへの探査やその研究開発が何に役立つのか?」という質問を受けることがある。ロジカルに説明すれば、「いつか起こりうる気候変動や隕石衝突、人口増加に対処するため」という理由を挙げることができるが、本来、「知らないことを知りたい」「未知の場所に行ってみたい」という欲求は、そのようなロジックを超えて、人間に植え付けられた本能なのだ。

⑧生命の移動