東京大学大学院工学系研究科にて教授を務める加藤浩徳教授(社会基盤学専攻)にインタビューを行い、交通事業の評価手法や途上国での現状について伺った。加藤教授は、筆者の学部時代の指導教員で、交通計画・政策や国際プロジェクトを専門とされている。教授は、交通政策審議会の委員などを通じて我が国の交通政策に関わると同時に、途上国を対象にした研究やその問題解決案の提案を行い、国内外のプロジェクトに数多く携わってこられた。前編となる本記事では、自動運転の実現により重要性が増すと予測される交通政策の評価手法とその心構えについて伺った。
小見門:それではまず、交通事業に対する評価手法やその心構えについて伺います。加藤先生は交通の時間価値に関する研究(※)で日本交通学会賞や米谷・佐々木賞を受賞されていますが、交通の時間価値とはそもそもどんなものですか。
加藤教授:一般に「時間価値」と呼ばれているものにはいくつかの定義がありますが、交通の時間価値といった場合、通常は交通の時間が短縮されることの価値をさします。交通にかかる時間が1分短縮されるのに私たちが最大でいくらまで払うことが出来るのか、支払意思があるのかが交通時間短縮の経済的価値です。簡単にいうと交通時間の短縮は二つの価値を生み出します。一つは短縮された時間を他の活動に使えることにより発生する価値、もう一つは移動中の不効用(=楽しい時間ではない負の時間)が減るという価値で、交通の時間価値はこれら二つの価値の合計となります。
小見門:交通の時間価値は基本的に交通事業の評価の際に使われるという認識で宜しいですか。
加藤教授:交通事業の評価の中でも、主に費用便益分析に用いられます。大規模な交通事業の場合には、交通サービスの変化が多様な場所や主体に影響を及ぼす可能性があるため、社会全体にどのような変化があるのかを丁寧に分析する必要があります。費用便益分析とは、そのような交通事業から生じる便益と、整備に必要な費用とを比較することにより、社会全体からみた投資の効率性を判断するために用いられています。この方法では計算の都合上、便益と費用を金銭単位で計算する必要があります。交通事業では、交通事業の短縮効果が便益の大半を占めるケースが多いため、交通の時間価値を用いて、交通時間の短縮効果を金銭単位に換算する作業が不可欠となるのです。
小見門:交通の時間価値は交通事業の評価、特に費用便益分析において非常に大切な要素であることがよくわかりました。費用便益分析とは一見合理的で、万人にもわかりやすい評価手法ですが、それだけではこぼれ落ちるものも多いと感じます。他にはどのような評価手法があるのでしょうか。
加藤教授:もちろん費用便益分析だけでは十分ではありません。費用便益分析以外の評価方法としては、例えば多基準分析があります。多基準分析は、プロジェクトによって発生する複数の効果をそれぞれの尺度で計測し、統合と評価とを行う手法です。複数の効果としては、例えば、景観への影響や利用の快適性といったものが国交省によって指摘されています。
小見門:多基準分析は一見万能なようですが、一方で意思決定者の恣意性が強いようにも思えます。その点についてはどう思われますか。
加藤教授:確かにそのような批判は良く聞かれます。しかし、費用便益分析であっても、交通事業の効果を金銭的に一元化するプロセスで一定程度の恣意が入らざるを得ません。私はどのような分析も恣意を免れ得ないと考えています。政策評価において完璧に客観的な評価は不可能であるという前提に立つと、一番重要なのは皆の納得や合意なのではないでしょうか。評価を行う際にはまずはルールや枠組みを設定する必要がありますが、それらには社会的な価値観が必要です。ですから、皆が納得出来るようなルールを定め、そのルールの下で恣意性を出来る限り排除していくことが重要なのです。比較的、多くの人が納得できるルールが費用便益分析や多基準分析ということだと理解しています。
小見門:費用便益分析と多基準分析はどのように使い分けられるのでしょうか。
加藤教授:社会の情勢や国民のニーズなどに応じて、どちらの分析手法が重要視されるかは変化します。一番分かりやすいのは公平性への配慮です。費用便益分析は、費用や便益の社会全体の合計値だけを考慮しており、誰にどれだけの便益が分配されるかという公平性を配慮することが困難です。公平性が重視される風潮が世の中にあれば、多様な尺度で評価が可能な多基準分析が好まれるかもしれません。一方、政府の財政状況に国民が厳しい目を向けていれば、「無駄遣いをやめてほしい」という世論に答えるために、社会全体の効率性をわかりやすく説明できる費用便益分析の方が好まれるかもしれません。
我が国では、少なくともここ15年程度は費用便益分析が重視される傾向が続いてきたように思われます。しかし、安倍政権がインフラ投資を通じて景気を好転させようとする政策にかじを切ってからは、理論上の狭義の便益だけでは計れない多様な社会的なインパクトも評価しようという方向に少しずつ動いている印象はあります。
須田:
国際的にはどうでしょうか。
加藤教授:もちろん国や時代によっても大きく異なります。例えばイギリスについてみると、労働党政権時代は多基準分析的な評価が好まれたように思われます。しかしここ最近は、厳しい財政状況などから再び費用便益分析を重視する方向に社会の潮流が移っている印象があります。
小見門:完璧な評価手法など存在しないことがよくわかりました。様々な分析がある中で、意思決定者はどうあるべきでしょうか。
加藤教授:我が国の基本方針としては多基準による評価を重視しており、私もそれがあるべき姿だと思っています。費用便益分析が評価できるのは、あくまでも社会経済的な効率性という数多くある評価指標の中の一つにすぎないのであって、それ以外の、例えば公平性や経済の活性化などの効果を測ることには適していません。
しかし、人間は単純化した評価と意思決定をしたがるものです。例えば入学試験などでも全ての科目を点数評価し、その合計点をあたかもその人の評価であるかのように扱います。そのような単純化や一元化の誘惑に負けないことが重要です。複雑な世界を複雑なまま捉えるという姿勢を持たなければなりません。
小見門:意思決定者は、まず世界は複雑で、そう簡単に単純化出来ないということに自覚的にならなければならないということですね。
加藤教授:そうです。道路ひとつとってみても、道路本来の価値や役割を多面的に考えることが重要です。道路は一般的には車が通る場所だと考えられがちですが、これでは道路をただの線としてしか捉えられていません。道路はそもそも空間です。通行止めをすれば歩行者天国になり、座ることも寝転ぶこともできる。火事が起これば延焼に役立ち、地下には水道管が張り巡らされている。このように道路には本来は様々な役割があります。その道路を一元的にしか考えられない時に誤った意思決定がなされるのだろうと思います。まずはいろいろな道路を目にし、体験し、その意味について真剣に考えることが重要です。
小見門:ありがとうございました。次回は途上国における現状についてお伺いします。
※研究成果は『交通の時間価値の理論と実際』加藤浩徳編著(技報堂出版、2013年)としてまとめられている。交通の時間価値について興味をもたれた読者は一読されたい。