これからの自動運転と福祉デザイン川村 匡由

③多発する交通事故と環境問題にどう対応したのか

2017.02.02

日本でモータリゼーションが進んだのは、1964(昭和39)年の東京五輪の招致にあわせ、東名・名神両高速道路が整備されていったころだ。自動車業界は、経済効果をねらう政界に政治献金をする一方、庶民も購入できる大衆車を大量生産し、国内の新たな基幹産業として市場の開拓を進めた。その結果、自動車の保有台数は1971(昭和46)年、1,000万台の大台に乗った。

年間1万6000人の交通事故死者

しかし、欧州の自動車と異なり、低価格とデザインを優先するあまり、軽量なボディや耐久性に欠ける車体が多かったこと、また、交通標識や信号機、ガードレールの整備の遅れなども重なって、各地で交通事故が多発し、年間の事故死亡者は1970年代に1万人に達した。その多くの犠牲者は、子どもや、高齢者などの歩行者、それに自転車に乗る主婦などで、第二次世界大戦(アジア太平洋戦争)期の年間戦死者数に匹敵するとあって「交通戦争」と揶揄(やゆ)された。

政府は、全国の主な幹線道路を中心に、交通標識や信号機、ガードレールを取り付け、歩行者の安全の確保と安全運転の励行を重点とした「全国交通安全運動」に取り組んだ。また、交通事故を起こした者には、その責任の重さに応じ、運転免許の停止や取り消し、罰金、懲役などを課した。

 

「歩道橋のため、肉体的、精神的苦痛を被っている」

交通量の増加は住民の不満も生み、歩道橋の利用を強制されることに反対した名古屋市内の住民有志が、政府と同市を相手取り、国家賠償法にもとづいて慰謝料を求める訴訟を起こした。いわゆる「歩道橋訴訟」だ。この訴訟は全国的な注目を集めたが、名古屋地方裁判所は1969(昭和47)年、「その程度の不利益では国家賠償法2条の要件を満たさない」として原告の請求を退けた。

その後も交通事故死者は増え、各地で死亡者の遺族が、加害者を相手取った交通裁判を起こした。損害賠償金や逸失利益、慰謝料など合わせて1億円以上の支払いを命ずる判決も出された。もっとも、1人につき死亡は3,000万円しか補償されない自動車損害賠償責任保険(自賠責)では、支払えない場合も多い。死亡者の遺族は、判決で勝訴したにもかかわらず、加害者に支払い能力がないため、損害賠償金などを受け取れないこともあった。被害者の遺族にとっても加害者にとっても、自動車事故によって一生を棒に振ってしまうことは多かった。

それだけではない。自動車を悪用した犯罪や、車体を違法改造し、夜間、市街地を走り回る暴走族も出現し、騒音問題を引き起こすようになった。その背景に、若者をターゲットにしたスポーツカーの生産・販売、および東京や欧米で毎年開催されることになったモーターショー、さらには一時期のスーパーカー・ブームなどの影響もあった。

それでも、政府の交通・道路行政の改善や交通取り締まりの強化のかいがあってか、1970(昭和45)年に1万6,000人と過去最多を記録した交通事故死者はその後、減少傾向に転じた。1988(昭和63)年に再び1万人に急増したものの、以後、7,000人台へと減少し、2010(平成21)年以降、2014(平成26)年までは4,000人台に推移している(一般財団法人全日本交通安全協会のまとめによる)。もっとも、交通死亡事故として取り扱われる件数や死者数は事故発生後、24時間以内と限られているため、実際はもっと多いと指摘する声もある。

 

マイカー規制と歩行者天国

自動車メーカーにとって次に突き付けられたのは環境問題だ。すなわち、騒音や、排気ガスによる住環境への影響、ガソリンなど化石燃料の枯渇、さらにリサイクルへの対応である。

排気ガスによる環境への悪影響への対応として、1975(昭和50)年、長野県道24号・上高地公園線の同松本市(旧安曇村中ノ湯)〜上高地間で、全国で初めてマイカー規制が実施された。また、同じ時期に、仙台市や東京都町田市で、住環境を守る福祉のまちづくりが取り組まれ始めた。

写真1 マイカー規制に踏み切った観光地(群馬県側の尾瀬・鳩待峠にて)

写真1 マイカー規制に踏み切った観光地(群馬県側の尾瀬・鳩待峠にて)

その後、群馬、福島、新潟三県にまたがる尾瀬(群馬県道・福島県道1号沼田桧枝岐線)や、栃木県の奥日光(日光市道1002号線および赤沼先手線)など各地に広がった(写真1)。

国際的には、より早くからこのような取り組みが行われている。スイス・アルプスのマッターホルンのお膝元、ツェルマットでは、戦後間もない1947年に、緊急車両や業務用の車両を除き、ガソリン車の市街地への乗り入れを全面的に禁止した。これは、世界で初めてのカーフリーリゾートであり、乗り入れる車を、電気自動車のタクシーや馬車だけに制限することで、環境保全に努めている。地元の住民が、アルプスの自然環境を保全すべく運動した賜物である(写真2)。

写真2 原則ガソリン車禁止のツェルマット(ツェルマットにて)

写真2 原則ガソリン車禁止のツェルマット(ツェルマットにて)

市街地についての事例は、欧州を見ると面白い。欧州では中世以来、都市部は教会や官公庁のある市民広場となっており、自動車の乗り入れが少ない福祉デザインとなっている。歴史的な遺産の保存のためだけでなく、公共のスぺースとして活用すべく、不動産売買などが法律で制限されている。とくに観光立国のスイスではツェルマット以外の農山村でも自動車の乗り入れを禁じ、その代わりに登山電車やロープウエー、路線バスなどの公共交通機関を整備し、住民の足を確保している(*1)。

日本では、1969(昭和44)年に、北海道旭川市の平和通買物公園で、恒久的な「歩行者天国」が初めて導入された。

化石燃料の枯渇や環境対策として、日本政府は1979(昭和54)年に「エネルギーの使用の合理化に関する法律(省エネ法)」を制定し、ガソリンやプロパンガス(LP)の自動車の燃費を改善するべく規制に乗り出した。以降、さまざまなエコカーがお目見えし、なかでもトヨタ自動車の「プリウス」はガソリンと電気を両方使用するハイブリッド車(HV)で、欧州の各国でも支持を得、タクシーなどに利用されつつある(写真3)。

写真3 内外に称賛された「プリウス」(関越自動車道・上里サービスエリアにて)

写真3 内外に称賛された「プリウス」(関越自動車道・上里サービスエリアにて)

その後、テスラモーターズや三菱自動車が、電気自動車を相次いで開発、市販している。メルセデスベンツやBMW、アウディ、フォルクスワーゲンなどドイツの自動車メーカーもプライングハイブリッド車(PHV)を市販するとともに、電気自動車や自動運転車の開発にも余念がない。

もっとも、自動車メーカーによる燃費の偽装問題が発覚するなど、自動車を取り巻く問題はまだまだ山積しているのが実態である。

*1 くわしくは拙編著『住環境福祉論』ミネルヴァ書房、2011年、拙著『脱・限界集落はスイスに学べ』農文協、2016年。

③多発する交通事故と環境問題にどう対応したのか