これからの自動運転と福祉デザイン川村 匡由

①輸送手段の変遷は人の生活をどう変えたのか

2016.11.02

人類は古くから、食料や生活に必要な物資を交換し、コミュニティを形成した。交易は人と人、コミュニティとコミュニティとが関係性を結ぶのを促し、人々は交易によって交流し合うことで、日々の生活の安全・安心を確保した。

古代ローマ時代における石畳の街道はその典型である(写真1)。彼らは、砂地や山地などの荒地に石を敷き詰め、車道と歩道を区分した道路を整備した。この街道は遠方の戦争を有利にすすめるためにも必須であり、ローマ帝国は戦争を通じて領土を広げていった。近隣のポリス(都市国家)を統合しながら、街道はローマからイタリア半島、イベリア半島、ギリシャ、さらにはアフリカの一部など地中海全域へと延び、帝国の基礎となった。

写真1 「すべての道はローマに通ず」古代ローマ時代の街道(ギリシャにて)

写真1 「すべての道はローマに通ず」古代ローマ時代の街道(ギリシャにて)

古代ローマ時代の街道はその後も長く用いられた。なかでも郵便馬車は郵便物の交換により、異郷の地にある人々が互いに消息を伝え合うのに役立った。郵便物の集配を通じて配送者が受け取り人の安否を確認したりすることで、人と人の絆を深め、コミュニティをより強固なものにしていった。

写真2 中世の郵便馬車(スイス・ツエルマットでの仮装行列にて)

写真2 中世の郵便馬車(スイス・ツエルマットでの仮装行列にて)

一方、日本では江戸時代、東海道など五街道が整備され、江戸と各地が飛脚や早馬、早駕籠(かご)、千石船などで結ばれた。19世紀に、ヨーロッパで蒸気機関車が発明されると、日本でも蒸気機関車が新橋と横浜(現桜木町)の間に開通し、それまで船舶が主だった大量輸送の手段に、鉄道が加わった。1872(明治5)年10月14日のことである。

近代以前、日本では陸路よりも海路の方が盛んだった。大陸続きのヨーロッパと違い、日本は古来、四方を海に囲まれているうえ、国土の約7割が山岳部を占める山国であるため、限られた国土に街道を整備して飛脚や早馬、早駕籠、人力車に頼るよりも、渡し舟や千石船など船舶の方が人や物資を大量、かつ経済的に輸送するうえで優れていたからである。このような背景から陸路の整備は遅れたが、戦後の高度経済成長期には自動車の開発や道路の整備が進み、自動車が庶民にも普及した。

近年、岐阜市や京都市など各地の観光地にみられる鵜飼舟や人力車などは過去の交通手段を観光用に改めたものだ。このような試みは、伝統的な農林水産業や製造業を活性化し、観光によるサービス業も含めた新たなコミュニティの形成をもたらした(写真3および写真4)。

写真3 岐阜市の観光用鵜飼舟(岐阜市・長良川にて)

写真3 岐阜市の観光用鵜飼舟(岐阜市・長良川にて)

写真4 京都市の観光用人力車(京都市・哲学の道にて)

写真4 京都市の観光用人力車(京都市・哲学の道にて)

次章では、自動車の普及が人々の生活に与えた影響を考える。日本では1904年、電気技師、山羽(やまは)虎夫によって製作された山羽式蒸気自動車が自動車の開発の第一号といわれているが、本格的な開発および普及は戦後の高度経済成長期以降に持ち越された。

戦後の自動車の開発と、庶民への普及は、戦前の閉鎖的なムラ社会を市民社会へと止揚する牽引車となっていく。

①輸送手段の変遷は人の生活をどう変えたのか