SFの中の自動運転車沖田 征吾

③00年代SF、行為への意思・舞台装置化する自動運転

2017.05.16

主人公は手動運転を好む?

スター・ウォーズ エピソード2 クローンの攻撃スターウォーズのエピソードIIを思い出してみて欲しい。主人公のアナキン・スカイウォーカーは飛行する車「スピーダー」のハンドルを握り、めちゃくちゃな運転で師匠のオビワン・ケノビをビビらせる。銀河を駆け巡るほどの技術が発達した未来に、自動運転が無いというのはリアリティに欠けるだろうか?

けれどもこのシーンは、アナキンの恐れを知らない大胆さを示し、後にダークサイドへと堕ちる危うさも垣間見せる大切なものだ。スリルを楽しむ彼の顔はいきいきと輝いている。フィクションの中に自動運転車が登場しにくい理由の一つはこれだろう。運転するという行為は、登場人物を描くための重要な演出の一つになっている。


(Star Wars Episode II: Attack of the Clones – Trailer 0:32から登場)

アイ,ロボット

自分の手で車を操ることは、物語の主人公たちが社会=自動運転に縛られずに、意志を持ち、自由に行動することのメタファーとしても描かれている。これまで紹介してきた作品からも、そうしたシーンが発見出来る。『マルドゥック・スクランブル』(2003)の冒頭で登場するのは、悪役の自動運転車を追いかける古いガソリン車の主人公だった。『デモリション・マン』でも、主役のスタローンが操るガソリン車が、悪役の乗る自動運転可能なハイテク車とカーチェイスを繰り広げる。

『アイ,ロボット』とアニメ『サイコパス』(20話)での描写は象徴的だ。どちらも、それまでは迷っていた主人公が強い決意をすると同時に、自動操縦から手動運転へと切り替えている。


(I, Robot Movie CLIPより運転シーン)

PSYCHO-PASS サイコパス

こうした描写は、登場人物の大きな決断を強調するための演出にすぎないかもしれない。もう少し現実の感覚に近い作品を見てみよう。『エクスドライバー』の主人公たちは、運転することが自分の世界を広げると感じている。『魂の駆動体』の人類は、自動化技術によって利便性を追求するほどに現実世界への興味を失い、その結果滅んでしまう。

「世界が広がったっていうか、自分の能力が無限に思えて……自分の意志でハンドル握って、アクセル踏んで、どこへでも行けるじゃない?」
(『エクスドライバー』1話)

「クルマを巧みに運転することによって得られる身体イメージの拡張……操舵や加減速によって巧みにクルマを操ることで、それと一体になって連続するコーナーを素早く駆け抜ける自己のイメージ、いわば主観的な身体イメージの拡張(拡大)を感じる快感」
(『魂の駆動体』解説)

最初の自動運転車SF、“The Living Machine”でも、自動運転車の普及がもたらした「人々の自発性の低下」に悩む発明家のシーンがあった。車社会のアメリカでは、16歳で運転免許を取得することが、自立の第一歩として大きな意味を持っている。運転が失われることによる社会の変化について、日本よりも切実な思いがあるかもしれない。今後、現実で自動操縦車が普及したとしても、いや、普及するほどに、むしろSFのヒーローたちは自らハンドルを握り続けるのではないだろうか。

00年代後半〜現代 舞台装置化する自動運転車

現代に近づくと、いよいよ自動運転技術も珍しいものではなくなり、次第に「リアル」な、つまり現実世界のそれに近い自動運転車が描かれるようになる。結果、SF作品にとどまらず、海外ドラマの『NCIS』(2006「恐怖の殺人カー」)や『CSI:サイバー』(2015 “gone in 6 seconds”)、マンガ『王様達のヴァイキング』(2014 6巻)といった、現代・直近の未来を描いたものにも自動運転(あるいは遠隔運転)車が登場する。どれも刑事が関わるストーリーで、車載コンピューターのハッキング、という事件から物語がスタートしている。

「extant」(2016年 2-1)や前に挙げた『マイノリティ・リポート』では、ハッキングによって主人公が車の中に閉じ込められてしまう。“The Living Machine” を思い出しても、自動運転車が暴走することへの危惧は根深いようだ。自動運転車が「意志」を持ち、人間を傷つける、という未来はまだファンタジーの域を出ないが、ハッキングや自動運転によって、事件に、あるいはテロに用いられるような作品はこれからも増えることが想像出来る。

日本のSFアニメ、小説、マンガの中で、自動運転車は珍しくなくなった。アニメ『エルゴプラクシー』(2006)、『電脳コイル』(2007)『マジェスティック・プリンス』(2013)『サイコパス』(2012)や、小説『魔法科高校の劣等生』(2008)『know』(2013)『ハーモニー』(2008)に登場するとき、自動運転車はもう特別なものには見えない。どの作品においても、その描かれ方はとても自然で、自動運転車であることの特別な説明は不要のように思える。先日完結して話題になった『こち亀』200巻の第一話でも自動運転車の紹介が行われている。

『こち亀』200巻 第一話 自動運転車

(C)秋本治・アトリエびーだま/集英社

ここまで、年代順に、SF作品における自動運転車のイメージの変化を見てきた。最初は生命や人格を持たされた自動運転車は、その後、人工知能や自動運転技術の発達に影響を受け、舞台装置として物語の背景へと引いていった。次回では、現在の自動運転技術を踏まえて、さらに先の未来を描いた作品を紹介する。

③00年代SF、行為への意思・舞台装置化する自動運転