SFの中の自動運転車沖田 征吾

②「意志を持った車」から想像力の拡張 60〜90年代

2017.02.08

ここからは年代別に、様々なSF作品を見ていこう。時代の移り変わりとともに、自動運転車の機能やイメージ、描かれ方が変化していくことを紹介する。

〜70年代 車を愛することは出来るか『サリーはわが恋人』

この時期、SFというジャンルは大きく成長し、多くの作品が登場した一方、自動運転車の登場は少なかった。むしろ、空飛ぶ車が様々な作品に描かれているが、登場人物たちはそのハンドルをしっかりと握っていた。現実世界ではアポロ計画が進み、人々の興味は地球よりも宇宙に向いていたことも一つの理由だろう。

『サリーはわが恋人』

1957年、ロボット小説で有名なアシモフの『サリーはわが恋人』は数少ない例外、自動運転車を中心に描いた短編だ。舞台は、引退した自動運転車を収容する「養車園」で、主人公は自動運転車をペットか恋人のように可愛がり、世話をしている。”The Living Machine” と同様に、車を一種の「生命」として見る視線が特徴的だ。

こうした見方は、その後、現実の人工知能が思っていたほど人間的ではないことが分かるにつれて失われていった。人工知能のsiriと会話を重ねても、私たちは、iPhoneという容れ物に人格を見ることはない。むしろ、人工知能は一つのデバイスに縛られず、人間でいう魂のように、スマホ、PC、自動車それぞれの間を自在に移動することが出来る。映画『her』(2013)に登場する人格を持つOSは、ネットを介して常に主人公と行動を共にする。現実の世界でも、siriやコルタナといったアプリケーションが発展して、自動運転車のナビに組み込まれることは想像しやすい。

この年代では『サリーはわが恋人』のほかにも、ゼラズニイの『ドリームマスター』(1966)と『悪魔の車』(1976)、クラークの『地球帝国』(1971)にもわずかながら自動運転車が登場している。

80年代 意志を持つ相棒、ロボット・カーの登場

現実世界で、コンピュータと人工知能が大きく発展したこの時期、SF作品においても、自ら考え、走り、会話もする自動運転車が登場する。ハインラインの大長編『獣の数字』(1980)に登場する車載コンピュータ「ゲイ・デシーバー」は、主人公の時空の旅のパートナーとして登場。人間のように会話し、ヒロインに嫉妬までしてみせる。

『ナイトライダー』

1982年に放送が始まったテレビドラマ『ナイトライダー』に登場する「ナイト2000」は、おそらく世界で最も有名な自動運転車だろう。搭載された人工知能は、「また別の女性を乗せてる……一人に決められないんですか?」と主人公の恋の相談に乗り、時には「あなたまで人殺しになってはいけない!」と彼の行動をいさめることもある。

日本人であれば、『ナイトライダー』の放送とほとんど同時期に連載を開始した『大長編ドラえもん のび太と海底奇岩城』の愛すべきロボット・カー、「バギーちゃん」の方が記憶に残っているかもしれない。自分勝手な行動でジャイアンとスネ夫を殺しかけ、全く命令を聞かないわがままなマシンではあるが、しずかちゃんにだけは心を許し、最後にはその命と引き換えに彼女を救う。「ボクシズカサンノタメナラコワレテモイイ」というセリフが彼の心を物語っている。

『大長編ドラえもん のび太と海底奇岩城』

のび太らが乗っている車がバギーちゃん

これらは、自動運転車というより「車の形をしたロボット」という捉え方が合っているかもしれない。『サリーはわが恋人』や”The Living Machine”の自動運転車も、「生命を持っている」と形容されていたが、会話は出来ず、人間には理解出来ない異種族としてのイメージが強かった。一方、ここで紹介した『ナイトライダー』等の自動運転車は、一人のキャラクターであり、人間にとっての頼もしい相棒として登場する。このイメージは、後の『勇者エクスカイザー』に始まる勇者シリーズ、2014年の『仮面ライダードライブ』ほか、多くのアニメ作品に引き継がれている。人間味あふれるキャラクターは魅力的ではあるけれど、デートの邪魔をされ、望んだ場所に連れて行ってくれないというのは、あまり便利ではなさそうだ。

90年代〜00年代前半 拡張する想像 -ハッキング・ロボット運転手・消える行為-

この頃になると、SF映画の中に自動運転車が描かれる頻度がぐっと増してくる。現実での自動運転技術の発展が、フィクションにも大きく影響を与えたのだろう。『トータル・リコール』(1990)のタクシーは自動運転だが、コミュニケーション目的……にしては不気味なロボット運転手が搭載されている。(『トータル・リコール』trailer 1:50に登場)

『デモリション・マン』(1994)や『シックス・デイ』(2000)では、自動運転と手動運転が共存しているようで、必要な場合のみ人間が運転する描写が登場する。『マイノリティ・リポート』(2002)には、スタイリッシュなデザインの自動運転車が登場する。ハンドルがなく、座席が向かい合わせについていてリラックス出来そうだ。(『マイノリティ・リポート』trailer 0:58に登場)

『アイ,ロボット』(2004)では、自動運転技術によって、人間の判断力では難しい時速300キロの高速走行を可能にする場面が描かれている。

日本の作品にも、この頃から一気に自動運転車が登場しはじめる。『攻殻機動隊』(1991年)の世界で、一般的な車が手動なことにも驚くが、タチコマ(漫画版ではフチコマ)という多脚戦車は人工知能を持ち、様々な判断を自分で行う。『serial experiments lain』(1998)では、ほんの数秒だけではあるけど、中央管制システムが自動制御の無人トラックを走らせていることに触れられている。

『エクスドライバー』

この時代の作品で、一番注目したいのは、自動運転にフォーカスしたアニメ『エクスドライバー』(2000)。ほぼ全ての車が自動運転車となった近未来、暴走する電動AIカーを、手動運転のガソリン車で追いかけて停止させる「エクスドライバー」たちが主人公のストーリーだ。

冒頭、ある家族が自動運転車に乗り込んで「娘の誕生日だ、レストランリストを!」とナビに呼び掛ける。すると、車載コンピュータは先にインターネット経由でレストランを呼び出し、予約が確定した後になってはじめて走り出す。何気ない場面ではあるけれど、「食事」という目的が先にあって、「運転する」という行為は背景に消えている。プロフィールで触れた『魂の駆動体』で描かれている、「洗練された自動運転車がエレベータや動く歩道と変わらないもの」となった社会を思い出させる。

それにしても、『エクスドライバー』の自動運転車は良く暴走する。ハッキングもされ放題だ。事件が起きなければ主人公たちが活躍出来ないから仕方がないのかもしれないが、出来ればこういう未来は避けたいところだ。

次回は、まずフィクションにおいて「運転する」という行為が、主人公の自由な意思を表現していることを考察し、その後に自動運転技術が現実となりはじめた現代のSF作品を見て行こう。

②「意志を持った車」から想像力の拡張 60〜90年代